その女性を見た瞬間、
あたりの景色は急にぼやけ、全てが、モノとしての輪郭を無くす。
だがしかし、そのまわりの景色とは対照的に、
その女性の存在だけは、
はっきりと輪郭が浮き出てオレの目に鋭利に食い込み、
そして、痛いほどに焼きついた。

空気の無い宇宙空間に投げ出されると、きっとこんな感じなのだろう。
宇宙空間では、目で捉えたモノとその目の間に
空気というフィルターが無いぶん、
モノのカタチが痛いくらいに浮き出て見えるらしい。
そして、実際には距離のあるモノも、近くにあるように見えるらしい。

自分の視界の変化に戸惑いながらも一瞬、オレは、そんな事を考える。
 
その時のオレは、宇宙空間に投げ出されたも同じだった。
まわりが見えなくなっている。
いや、その女性しか見えないのだ。
オレと彼女の間には埋め難い距離があるにも関わらず、
オレの目は、彼女を捉えて放そうとしない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オレはその日、恋に落ちた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
病院の帰りに寄った薬局。
オレは、彼女と出会う。
オレは、薬局の長椅子でオレの隣に座る彼女を見た瞬間、
自分が一瞬にして恋に落ちた事に気付いた。

目の奥で何かがはじけ、ソレは甘い刺激となって脳に伝わる。

恋だった。
まさしく恋だった。
オレは、恋をする自分を自覚した。
一目惚れというヤツだ。

オレにはベツに、理想の女性像などは無いのだけれど、
その名前も知らない女性は、オレにとって全てが完璧に見えた。
荒んだオレの心を救ってくれる女神に見えた。

オレは、完全に恋という奈落の底に突き落とされたのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
だが、その恋は、最初から上手くいくとは思えないものだった。
オレにはわかっていた。
その恋が実ることは無いことを。

なぜなら、その女性は既婚者なのだ。
しかも、彼女のすぐ傍には、2人の子供がいる。
3歳くらいの女の子と、ベビーカーに乗せられた
女の子とおぼしき赤ちゃん。

彼女にはすでに家庭があって、大事な家族がいた。
きっと、家に帰れば愛する旦那様もいるのだろう。
オレがいくら愛したところで、
きっと、その愛の大きさにはかなわないのだ。

「愛しても愛しても、あああ〜あ 人の妻〜」
オレの心の中に、大川榮作の名曲、『さざんかの宿』が流れる。

家庭を持ち、家族がいる女性に恋をしてしまったオレ。

オレは、恨んだ。
彼女が家庭を持つ前に出会えなかった自分の運命を恨んだ。
彼女が家族と共に楽しく過ごしてきたであろう時間を恨んだ。
そして、
彼女と愛する人の愛の結晶とも言える
罪の無い二人の子供を恨んだのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
だが、ここで事態は動いた。

「ちょっと待っててね?」などと子供に言い残し、
彼女がトイレにでも行くのか、席を立った。

ベビーカーに乗せられた赤ちゃんは、
状況を知らぬままにあたりをキョロキョロと見回し、
3歳くらいの女の子は、1人で絵本を読んでいる。

と、いきなり、ベビーカーの赤ちゃんが、泣き出したのである。

きっと、赤ちゃんという存在は全てにおいて敏感なのだ。
彼女が自分の傍を離れたことを、いち早く察知したのだろう。

声を張り上げて泣く赤ちゃん。
絵本を読んでいた女の子は、その絵本を閉じて、
赤ちゃんに向かって「泣かないで〜」などと言っている。

オレは、そんな様子を見ていて、
始めは知らないフリをしていた。
しかし、ベツにそんな状況を見過ごしてもよかったのだけれど、
結局オレは、女の子と一緒にその赤ちゃんをあやし始めた。
 
「は〜い、もうすぐママ、帰ってきまちゅからね〜」
そんな、甘ったるい事を言いながら、赤ちゃんをあやす。

「ダイジョブでちゅからね〜」
オレは、自然と自分の中から湧いてくる赤ちゃん言葉を、
少し、恥ずかしいと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
と、そこでオレに、ある邪悪な考えが浮かぶ。

今、こうして赤ちゃんをあやしているオレがもし、
この赤ちゃんを泣き止ませたら、どうだ?

ソレって、母親である彼女に対してオレ、物凄く好印象じゃないか?

そうだ。
きっとそうなのだ。
きっと、トイレの中で彼女も、
自分の赤ちゃんの泣き声に気付いてるはずである。
多分、自分の赤ちゃんの泣き声に焦るだろう。
しかし、ソレを、
どこの誰とも知らぬ青年(オレ)が泣き止ませてくれたのなら、
きっと彼女は、オレに対して好印象を持って、
お礼の1つでも言ってくるはずである。

そして、そこから会話が生まれ、
ソレはやがて、愛に発展するのだ(←とびきり楽観的)

  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぬおおおおおおおっ!!

泣き止ますっ!!
オレ、絶対この赤ちゃんを泣き止ますっ!!

そして、彼女と結婚するっ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フハハハハハハ!!

悪いな!!
悪いな赤ちゃんよ!!

戦いとは非情さ・・・

オレは、貴様を利用させてもらう!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そしてオレは、必死に赤ちゃん泣き止まし始めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しかし、いかんせんオレは、
ろくに赤ちゃんに接したことが無い。
泣き止ます手段をあまり知らないのだ。

どうずればいいのか。
赤ちゃんを泣き止ますにはどうすればいいのか。
 
 
 
 
 
「いないいない、バァ〜」
 
 
 
 
 
苦し紛れに「いないいないバァ」などをやってみる。
しかし、泣き止まない赤ちゃん。
 
 
 
 
 
「ほらほら、もう1回、
 いないいない、バァ〜」
 
 
 
 
 
一向に泣き止まぬ赤ちゃん。
 
 
 
 
 
「ほらほら〜、いないいない、プゥ〜」
 
 
 
 
 
オレが変化球を投げても、 
赤ちゃんは、泣き止む気配が無い。
 
 
 
 
 
「ほら行きまちゅよ〜。
 いないいない・・・・・・
 と、見せかけて、こっちからフェイント!!」
 
 
 
 
 
オレは、驚かせてみようかと用いた奇襲攻撃も、
赤ちゃんには全く通用しない。
 
 
 
 
 
 
 
 
ふんぬ〜!!

ちっきしょう!!
なんだよこの「いないいないバァ」って!!
全然効果が無いじゃないか!!

効果が無いどころか、こっちが恥ずかしくなるわ!!
こっちの心が傷つくわ!!
泣きたくなるわ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
だが、ここで諦めないのが男、である。

「いないいないバァ」が通じないのなら・・・

そうだ、歌だ!!
歌を歌えば、赤ちゃんも落ち着くだろう、きっと!!

よし、こんな時は何を歌えばいいんだ?
ガンズじゃねぇ。
ガンズじゃねぇぞ?

オレは、ふと頭に浮かんだ歌を、
赤ちゃんのすぐ近くで優しく歌った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「♪白やぎさんからお手紙ついた
 
  黒やぎさんたら読まずにたべた
 
  仕方がな〜いのでも〜一度書〜いた
  
  さっきのお〜手紙ご用事、“殺す!!”
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ギャハハハハハハハ!!

ご用事“殺す”!!

ご用事“殺す”〜ぅ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はっ!?
イカンイカン!!
ついうっかり意味の無い替え歌を歌ってしまった!!
しかも“殺す”て!!
 
こんな歌で赤ちゃんが泣き止むはず無ぇし!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張り切って泣き止まそうとしたオレだったが、
なかなか泣き止んでくれない赤ちゃんに、
オレは少しいらだっていた。

苦し紛れに、
「ほらほら、未来のパパでちゅよ〜」
などと、赤ちゃんに向かって将来の話をしてみたが、
赤ちゃんには通じなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
もう、ダメだ。
『赤ちゃんをあやして、彼女とお近づきになろう作戦』、失敗である。

しまいには、
「この赤ちゃんを泣き止ますには、息の根を止めるしか無い」
などと思ったが、そんな事をすりゃ、本末転倒である。

やはり、赤ちゃんにはオレの薄汚れた心は通じないのだろう。
 
オレは、全てを諦めた。
やはり、彼女とオレの間には、
大きな、そして越え難い壁が存在したのだ。

オレの頭の中には、いつまでも
『さざんかの宿』が鳴り響いていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
・・・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
と、そこで、いきなり彼女がトイレから帰ってきた。

泣いてる赤ちゃんに対して、
「ゴメンね〜」などと言っている。

きっと彼女は、彼女がいない間、
オレが必死に頑張っていたことなど知らないのだろう。

まぁ、ソレもいい。
今日、生まれた恋を誰にも触れさせず、
自分の中にしまって生きていくのも、きっと悪いもんじゃないはずだ。

オレは、俯きながらそんなセンチメンタルなことを考えていたのだが、
すると突然、
赤ちゃんをあやす彼女に対して、
隣にいた女の子、
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ママ、ウンチしてきたの〜?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
!?

ウ、ウンチ!?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あ、それ、オレもちょっと聞きたい!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
すると彼女、
 
「ママね〜、お腹が痛いの〜」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(ウンチだったんだ!!ウンチだったんだ!!)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コメント

か〜ん
か〜ん
2006年3月9日16:41

興味深くよんでいたら・・・

結局はウンチですか(笑

ベルッチ
ベルッチ
2006年3月9日20:28

あははは!
殺す!!ってー。さらっと出てきてしまうゲルタさん!しかも赤ちゃん相手に。。。

それにしても「さざんかの宿」てそんな道ならぬ恋の詩だったのですねー。
大川栄作といえば箪笥を担ぐ姿しか思い浮かびませんでしたワ。

ゲルタ
ゲルタ改
2006年3月10日8:19

●か〜ん様。

はい、結局ウンチです(笑
どーも、好きなんですよね。
オレの前世はハエだったのかな?なんて思います。
 
 
 
●ベルッチ様。

そうなんですよー。
『さざんかの宿』は、奥さんに恋してしまった男の歌なんですよ。
昔、歌詞の内容の意味も知らずに歌ってたもんです(笑

ああああ!!箪笥!!
大川榮作、ベストテンだかトップテンだかで
箪笥担がされてましたよねー。
今思えば、ヒドイ話ですよね(笑

ベルッチ
ベルッチ
2006年3月10日20:04

というか、大川栄作の箪笥担ぎは特技なんですよ!
確か箪笥屋の息子かなんかで、特技だったんですよ!

ゲルタ
ゲルタ改
2006年3月10日22:35

●ベルッチ様。

そうそうそうそう!!
大川榮作、箪笥屋の息子なんですよね!!
特技は箪笥担ぎなんですよね!!
ってことはやっぱ、履歴書にも
「特技:箪笥担ぎ」って書いたんですかねー(笑

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