「次の土日は休もうかな」
仕事中、そんなことを考えている自分をふと、疑問に思った。
休日に仕事をすることに対して、何の疑問も持たなくなってきている。
麻痺。
吐く息が白い朝早くに起き、
吐く息が白くなる深夜に帰宅。
太陽はただ太陽なだけで、
月はただ月なだけで、
そこにある色や空気を感じることも忘れてしまった。
稲が黄金色に輝くことも、
遠くの山が青く見えることも忘れてしまった。
ネクタイの結び方ばかり上手になり、
革靴の靴底ばかりすり減らす。
食事を楽しむ心の余裕もなくなり、
それはすでに、3時間後に立っていられる為の、ただの補給。
夢見がちな頃に、あれほど嫌っていた社会の歯車。
ふと気付けば、今、
自らそうであり続けたいと願うばかりに働きつづける自分がいる。
自分という歯車は、このシステムから外されたくないとばかりに働く。
『ソレガヤリタカッタノデショウ?』
そうじゃない。
やりたいことは他にあるんだ。
『ジャ、ナンノ為?』
“今、生きるため”にカネが必要だから。
『ジャ、ガンバレバ?』
何をガンバレばいいの?
働くこと?
それとも生きること?
昔は、大人は愛想笑いばかりしていると思っていた。
愛想笑いで大抵のことは通用するから、大人には、
自分たちが抱えるような深刻な悩みなんてないのだと思っていた。
だから、そんな大人を軽蔑もしていたし、
自分が大人になることを嫌っていた。
でも、自分が大人になって初めてわかるのは、
あの時、大人も悩んでいたってこと。
きっと、親も、先生も、みんな悩みを抱えていたってこと。
みんな、きっと、抱えていた。
でも、みんな、笑っていられた。
それはきっと、とてつもない苦しみだ。
今、この身を苦しみのなかに置いて、初めて気付く。
コメント
私は「嘘吐きおやぢ」だからなぁ(^_^;)
自分の手で他人に与える事の出来る「苦しみ」ってのは、多分、殆ど理解できてしまうと思い込んでいるけれども...自分自身で感じる事は「無い事」にしてるからなぁ。
今、此方でこうして誰かの言葉を読み、また書く事が出来てしまっているという現実がある限り、私自身は、既にかなり(きっと何処かの誰かの食扶持を掠め取ってるってのと同義なんだろうけども)恵まれて妬まれても仕方が無いんだとも思ってるけどなぁ。
だから、逆に、この状況を楽しまないというのは、そうでない状況にある人に対して失礼に当たるんじゃないかとも思うわけで...不平等で理不尽だと感じてしまうことだけは誰にも平等に振り分けられるのならば、その時点でズルかましたわけでない限り(できるのは...所謂所の運命の女神って代物かな♪)満喫して見せなければならない,,,ってな事も思ってたりもします♪
まだ、自分の人生がどうなるか分からないときは、あんな大人にはならないと思っていたのに、境界線があるわけでもないのに、気がついたら夢なんて現実に押しつぶされてる大人になってるんですものね。
でも、自分にとって何が幸せかを明確に持てたら、単純に働いてお金稼いでいることも、幸せを守る一つの手段に思えるんじゃないかな。手段であって目的ではないのだから。
その忙しい中で美しい景色なんかが見られるようになったらすごく楽しい毎日になるんじゃないですかね?
私は歯車の一部になりそびれたんで分からないですけど;;
仰ること、わかります。
確かに、「そうでない人」に対して、
すっげー失礼になりますよね。
オレが選んでる道なワケですし。
自分でやっておきながらそこにジレンマを抱えるなんてのは、
自分がアホなのだと思ってます。
気付くのが遅ぇんですよ。
●miyyuboe様。
そうですねー、手段であって目的ではない。
そうなんですよね。
でもオレ、その手段がいそがしすぎて、
目的の為に成すべきことを
何一つできてない状態になってしまいまして。
や、目的の為ならば、そこへ到達する為までの手段、
仕事なんかは何でもいいのでしょうけど。
結局、情けないことに、泣き言なんですよね。
●マルクル様。
そうですねー。
忙しい中、そういった景色なんかに目が行くような
余裕が持てたらステキになるでしょうねー。
や、歯車といったのは言葉が悪かったのですけど、
今ではとても尊敬してるんです。
めちゃくちゃスゲーなーって思うんです。
社会にあって、そういう立場に生きておられる方。
若いころは、なぜか反発しちゃうんですよね。